走り出せば止まる事を知らない人々
知人に誘われてイタリア人と日本人のいる飲みの場に行った。まさかここでこんな不思議な光景を目の当たりにするとは思わなかった。
イタリア人はキウーゾ (閉鎖的) とか内輪で固まるとか、会ったり飲んだりするのはいつも変わらない同じメンバーだといろいろな人から聞いていた。実際そういう人と僕は会った事もなく,出会ってきたイタリア人はとてもシンパティコ (親しみやすい) で、僕自身はいろんな人とつきあいをしている。
ミラノで会う友人もとても親切でよくケアしてくれる。行く先行く先で突然出会ってきた職人たちも、そんな僕に対しても親切な応対で接してくれた。ジェノバのロレンツォが言っていたのは「ジェノバの人間はとてもキウーゾで君みたい日本人が来ても打ちとけられないだろう。僕ですらそうだから」という。僕は「ふ〜ん」という程度で実感が湧くはずもない。「じゃ、君はパルティコラーレ (ちょっと変わり者) なんだね?」と聞くと「Si」と返された。
僕が来たのはミラノ市内の南の方のバール。早い時間はハッピーアワーでドリンクは安く、ちょっとしたつまみはタダで食べられる。だから一杯しか飲まずに何時間もしゃべり続けるイタリア人にとっては、3〜4ユーロもあれば夜は過ごせるのだ。
イタリア人は 3人いた。仕切り屋のようによくしゃべる男が一人,それに相づちを打つように相手をする男。その脇にイタリア人相手の日本語教師の女性。もちろん僕は彼らとは初顔合わせ。僕は彼らを知らないし,彼らも僕を知らない。でも話す内容と言えば,よくわからない。イタリア語を理解しきれないというのもあるが,正に内輪の話に終始している。日本人がいるのに日本語を話そうともしないのも理解できない。日本が好きなのではないのか? 日本語を話そうとすればたどたどしい。
何故日本人と空間を共有しているのか?
僕には理解できなかった。彼らはただ自分がよく知っている友人と一緒に、自分のよく知っている事を話したかったのだろうか? 僕は新しい感覚を取り込みたいがためにここに来ているのに,共通項を見いだす事もないまま,お互いが近寄る事もないまま平行線をたどる事が怖かった。もったいない。
一人が僕に何をやっているのか話しかけてきたものの、そこから広がる話もたかが知れている。彼らはミランが勝っただとか、デルピエロがどうのこうの、ではなく「彼は」「彼女は」という自分たちの作り上げた空間の中にいる存在を面白おかしくしゃべり続けている。その彼や彼女が一体どういう何者なのか知るよしもない。そこに僕の入るスキなどない。それとも入ってこられるのが怖いのだろうか? 自分を変えたくないのだろうか?
彼らが言うには話の腰を折っても話に入ってくれば相手にするという。確かに海外ではそういうものである。自己主張なしに、誰かが自分をわかってくれるだろうなどと、受け身の期待をしていても道は開けない。一つ言えるのは、この場がどういう場であるかという事。彼らも仕事が終わり,頭悩まされる過酷な労働から解放されてまで,日本語で頭を悩ましたくない気持ちもわかるし,真面目な話よりアホな上っ面の話で気楽でいたいのもわかる。人の余暇をどうして僕が奪えるだろうか? 彼らには楽しんでもらいたいと願うばかりである。ただ端から見た僕が感じたのは、何の魅力も感じられない彼らと自分のエネルギーを費やしてまで彼らと関わる事で、どれだけのものを手にすることができるのだろうか? そう思えば一晩だけの出来事。僕は彼らの人間観察に時を費やした。
人はいろいろいる。イタリア人の中でもいろいろといる。イタリア人でも痛みというのを理解している人はもっと動きが違っていた。そういった僕が出会って来た人とは異なる、いわゆる一般的なよくあるイタリア人像の彼ら、そんな人間模様を垣間見られた事はそれはそれで有意義だった。
日本にいたころの職場で、まわりが中国人ばかりのことがあった。当然中国語で会話がやり取りされることがあり、やはりその輪に加わることはできない。ある日、一人の中国人女性がみんなの前では日本語で話しましょうと切り出した。言葉で壁を作っているわけだったから彼女はナイスと思った。そう考えると日本語のわからないイタリア人の前で日本人同士日本語で話すのはよくないこと。だが日本人は得てしてやってしまうものである。自分たちにとってはわかるものだからいいが,外国人にはわからないし,何を言っているか、何を言われているか気になるものである。気まずくもさせてしまう可能性もあるという事。
ホントに笑えたのは、彼らは話す人間同士でしか顔を向けあわない。顔を向ける方向で外部に対して完璧に壁を作り上げていた。それからもっと笑えるのは、みんなと僕との会話は僕を誘った知人を介して行われていたこと。みんなは知人に僕のことを質問して、知人が僕のことを答える。本人と直接やり取りすればいいのに間接的にやるのは日本人ぽさすら感じられた。
イタリアの集合住宅のつくりを見ると、必ず中庭に入ってから自分の部屋の入り口に行く構造になっている。周囲は囲まれていて,外部とは仕切られている。また各都市との構造を見ても昔の城壁の名残が必ずと言っていいほどある。城壁によって敵や他国からの侵略を守るためである。こんな事を見るだけで,この国の人は深層の部分では外部から自分の領地を荒らされる事を無意識のうちに嫌い、守る事に終始しているように感じる。
仕切り屋の男が自己満足的にみんなの前でしゃべりまくっているのを見て「あいつしゃべりすぎだから、あいつをストップさせたらいい」と隣りにいる知人に言うと「彼がしゃべって雰囲気を作るのがいい」といっていた。それは僕にとってはどうでもいいことだが、少なくとも日本においてそれでは参加している個々の個性なしで時間が過ぎ去っていく。個々がしゃべる時が必要だと僕は考えていた。彼の個性だけが露出していたところでそんなのどうでもいい事である。日本人ならもう少しお互いの接点を見いだす努力をするはずである。そのとき人が何を感じているか察することのできるこの繊細な感覚は、言わないとわからない海外の人間と違う日本人の美しい感覚だろう。行間を読めるというか機微を感じられるという事だ。
しゃべりすぎの男が隣りの日本人と二人でしかわからない話を始めると、途端に場は静まり、彼ら二人と関われなくなったイタリア人もあきれていた。正にそれがこの時の僕の立場であったが,それが彼らにわかっただろうか? そんなことをわかって欲しいという事ではなく,そういう関わりを作らない事をこの国ではそういうもの (当然のこと) と考えているというからおかしい。ただ次第にその場は他の人間同士で話し出す空間を作っていた。
僕は疲れて途中で席を立ったが,金曜の夜だけに彼らがいつまであの空間を楽しんでいたかと思うと,ゾッとしてくる。ひきめでこういう不思議な人間模様を冷静に分析するのも面白かった。
テレビでロベルト・ベニーニが大学のようなところで芝居のようなしゃべりで講演のようなのをしていた。一体なんなのかはよくわからないが、ベニーニを見るのは珍しかったので撮ってみた。
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トラックバックありがとうございました!なんだかすごく楽しそうな生活ですね☆またゆっくり拝見させて頂きます♪
投稿: pandano_sippo | 2006年4月10日 (月) 15時08分
はじめまして。トラックバックありがとうございました。
イタリアに住まれているのですね。イタリアは色んな面で惹かれ続けている国です。興味深々。。
またゆっくり遊びに来ます!
投稿: tchaihuis | 2006年4月10日 (月) 16時28分
pandano_sippoさん、tchaihuisさん、はじめまして。コメントありがとうございます。この国はホントにいろんな面があります。楽しいと思うこともあれば,拳を握っているときもあり、でもそんなふうに感情が表に出ているのは当然な事で、健康の印でもあります。そんな人間らしい生活を演出してくれるこの国には、なんだかんだ言いながらも感謝している自分がいます。生きている感じがわかりますからね。
投稿: イケピー | 2006年4月11日 (火) 04時23分
TBありがとうございます。
いや~、イケピーさん。
記事やホームページ関係見させてもらいましたけど
熱いですね。うん熱い。
僕は熱い男は好きですよ。
投稿: 元木桂吾 | 2006年4月12日 (水) 12時45分
イタリア人は、陽気で社交的で親しみやすいイメージを持っていましたが、長く住んでいると様々な面々が見えてくるものですね。
毎年ホームステイで学生を連れて海外へ行ってますが、ホストファミリーの前では、日本人同士で日本語を話さないように学生に注意をしています。英語の勉強の為だけでなく、相手に失礼にならないようにと気を付けていたことを思い出します。
それにしても、回りを見ずによくしゃべるイタリア人のおっちゃんには困ったもんでしたね。
投稿: kiyokiyo | 2006年4月12日 (水) 21時28分
イケピーさん、こんばんは。イタリア人って私のイメージとちょっと違ってました。もっともっと360度オープンな感じがしていました。みんなwelcome!!っていうようなかんじかなあ・・・。その土地に長くいると、旅行などとは違う、深いところまで見えてくるし、少し離れて見る余裕も出来るんですね。日本人の国民性というか、繊細な感覚、美しい感覚というのはわかる気がします。今は残念ながら日本にもなくなる傾向にあるのかも知れませんね。昨日今日、会社で話したことがあります。仕事が出来る出来ない、って言うのは、ある意味、思いやりかも・・・ということです。相手がどうして欲しいと思っているのか、何を望むのか、もしかするとこんな事を待っているんではないか・・・。それをいつも感じていれば、自分が仕事の中で何をすれば良いのかわかるんだよね、ということです。
せっかくの日本人のそういった特性は、自分も大切にしたいし、そういう環境の中で暮らしたいと思います。私のブログのプロフィールに「好きな雰囲気・・体育会系大和撫子の友人がいる空間」なんて書いていますが、まさにそういう関係でいられる事を私はhappyだと思っているんだってイケピーさんの記事を読んで思いました。
投稿: みるくじゃむ | 2006年4月13日 (木) 22時20分
元木桂吾さん、はじめまして。コメントありがとうございます。すごい量の映画のレビューですね。その作品群に中に入れてもらえるような、血液が沸騰するくらい熱い映画を創りたいです。
投稿: イケピー | 2006年4月14日 (金) 06時51分
kiyokiyoさん、イタリア人は自分が中心に地球が回っていると思っている人がほとんどですよね。それはそれで面白いです。
神様がいろんな言語を作り出したとも言われますが,言葉が違うとお互いを理解しあえないんではなくて,お互いを理解しあおうとするようになるはず。それができないのが人間の弱いところだけど,理解しあおうという気持ちに持っていく事が何より大切だという事を教えてくれているんではないかと思います。いろんな見方があるもんですよね。
投稿: イケピー | 2006年4月14日 (金) 07時00分
みるくじゃむさん、イタリア人は表面的には明るくてオープンだと思います。実際、この日に会った彼らも明るかったですから。ただ僕が観察した結果、こんなうがったような見方もできてしまいました。
日本にいるときから思っていたのですが,飲みの場っていうのはいくつかのパターンがあって、必ず場になじめない人が出てくるものです。その人のために気を使う必要はないのでしょうけど,でもそこに目を注げる人というのは素敵だなぁといつも思っていました。せっかく同じ場にいるのだから,楽しい気持ちを共有したいという欲求なのではないでしょうか? 和を重んじる日本人ならではのいい面だと思います。
投稿: イケピー | 2006年4月14日 (金) 07時15分